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last updated 1997/05/30

第15話(全130話)

川の流れの中で(1/3)




第二章 不思議な世界

1 川の流れの中で

 どことも知れない時空の外へと飛び去っていた意識が、ふいにピートの中へと舞い戻ってき
た。
 ハッと我に返ったピートは遅ればせながらに「うわぁ」と悲鳴を上げた。けれど悲鳴なんか
上げちゃいけなかったとすぐに後悔する。悲鳴を上げた口の中へ、大量の水がガボッと流れ込
んできたのだ。
 ピートは自分がいま川の真っただ中を流されていることに気づいた。
 茶色い花の咲いていて鉄橋から川へと落ちたんだ。そして気を失ったまま、ぼくはどんどん
と下流へ流されてしまってたんだ。
 ピートは溺れてなるかと慌てて手足を振り回してみる。手足が重たい。服を着たまま泳ぐの
は、とても難しく危険なことだと体育の時間に教わったことがある。
 そういう時は無理に泳ごうとするな。
 プリーゼン先生は確かそう言ってたっけ。
 ピートは思い出した。
「泳ごうとするな。力を抜いて体の浮力に身を任せるほうがいい。手足を振り回すと、服やズ
ボンの中にたまっていた空気がみんな外へ押し出されてしまう。だから下手に騒がず、力を抜
き、大きく息を吸って肺に空気をためるんだ。いいか、人間の体は水に浮くんだ。そのことを
しっかりと覚えとけ」
 しっかりと覚えていたピートは、プリーゼン先生のいかつい角ばった顔と、マジックで書い
たような黒くて太い眉を思い起こしながら、大きく息を吸い、そして体から力を抜いた。
 先生の言う通り、ピートの体はプカプカと、いともたやすく水に浮かんでくれた。
 慌てるな。落ち着け。ぼくはあんなに高く鉄橋から落っこちたのに、ちゃんと生きてるんだ
。体のどこも特に痛まない。怪我はしてないんだ。だから大丈夫。運が良かった。自分の幸運
を信じるんだ。
「幸運を信じるのよ、ピート」
 母のマリカがいつだったか、そう語ってくれたことをピートは思い返す。
「幸運は誰にでも平等に訪れてくれるものなのよ。太陽の光のように、それは誰にでも同じよ
うに降り注いでくれてるの。なのにどうして世の中には不幸な人もいれば、悲しみに沈みっぱ
なしの人もいるのかしら? それはね、世の中には自分に訪れた幸運を信じない人がいるから
なの。そういう人は自分に幸運なんかが訪れるわけはないって想ってる。幸運よりも不運のほ
うが信じられるの。だからせっかく訪れた幸運を疑い、警戒し、そしてやり過ごしてしまうの
。そして慣れ親しんだ不運の中に身を浸したまま生き続けることを選ぶのよ。そういう人生を
知らず知らずのうちに選択してしまうのね。ピート、あなたは違うわね? あなたは幸運を信
じられるわね? 自分を高めてくれるチャンスは逃さないわね? ラッキーを素直に喜べるわ
ね?」
 うん、とピートはうなずいた。自分に降り注ぐ幸運を信じ、感謝し、大切にすること、それ
がより良い人生を送るための、たったひとつの約束だと胸に刻み込んだ。
 ピートは川に助けられたのだと思うことにした。川はぼくを溺れさせようと企んでいる邪悪
な存在ではなく、ぼくを救い、守り、いまもやさしく包んでくれている。そう思うと周りの世
界がいきなりやわらかくて、そして暖かく感じられるようになった。
 プカリプカリと川面を漂うピートを導くように、川の流れは彼を岸の近くへと運んでくれた
。ピートは同じように川の流れのままに流されてきたらしい木の枝に手を伸ばし、それをつか
んだ。木の枝は岸に生えていた別の木の根にひっかかり、しっかりと固定されていた。
 これもまた幸運。
 自分に言って微笑み、ピートは木の枝を伝って岸へと近付き、浅くなった川底を蹴るように
して岸へと上体を乗せ上げた。
「フーッ」
 長い息をつき、ピートはそのままゴロンと仰向けになって地面に体を投げ出す。大の字にな
ってひっくり返っていると、青空が輝くほど透き通っているのがわかり、何故だか理由はない
けれど、甘い幸福感に包まれた。
 空が青いというだけで、こんなにもしあわせな気持ちになれるなんて。
 ピートはそんな自分が少し意外だった。やはり死の危険を感じ、命拾いしたことで、何だか
命そのものが生まれ変わったみたいに、何もかもが新鮮に感じられるんだろうか。
「死を覚悟した者にしか、生きることの喜びなど理解はできんだろうな」
 ジェイド爺さんの声が不意に耳に甦り、そしてピートは爺さんの言葉の真実を、いましっか
りと理解したと思った。
 青空がこんなに透明なきらめきに満ちるなんて、いままで知らなかったな。きらめきの、そ
の粒子が本当に舞っているように見えるなんて。
 ピートは生まれてはじめて、自分は本物の青空を見上げているのだと思った。泣きたくなる
くらい青い空、なんて言い回しは古い歌で聞いたことがあるけれど、世界には本当にそういう
ふうにしか表現できないほどの青い空があるんだ、と。その発見はピートをひとつ大きくして
くれるほどのインパクトを持っていた。
「あれ?」
 青空を見つめていたピートは、不意に声を上げる。青空に満ちていた光の粒子が徐々に大き
くなってきているのに気づいたのだ。いや、大きくなっているのではなく近づいてきている。
光の粒子が何十、何百という光の塊になって、空のてっぺんからどんどんピートめがけて近づ
いてくる。
 見間違いだろうか? 空をみつめ続けていたせいで、目がおかしくなっちゃったのかな?
 ピートは瞬きしようとした。けれどその瞬きが、出来ない。
 変だな。ぼくは目を閉じることができないぞ。
 思いながら空を見上げ続けるピートのほうへ、さらに光の粒子が下降してくる。それはてん
でんばらばらに舞い飛びながら、ぐんぐんとピートを目指してくる。
「違う! あれはただの光じゃない!」
 それは蝶だった。光り輝く蝶の群れが、まるで花畑を目指すように、自由に舞いながらピー
ト目指して接近してくる。見る見るそれは近付き、ピートの視界は青空ではなく輝く蝶でいっ
ぱいになった。
 ピートは思わず「わっ」と声を上げてしまう。彼はこの世ならざるものを見ていた。それは
光の粒子でも蝶の群れでもなかった。ピートが瞬きも出来ないまま見上げ続けていたのは
 妖精
 だった・・。

(つづく)




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